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関学のスクールモットー 〜Mastery for Service〜 についての論文です。

 伝統的価値観と近代的価値観における「自由観」と”Mastery for service”の関連

#9296 四宮雷太

目次


 はじめに
 ”Mastery for service”と、「C.J.L.BATES」
 自由とは?
 3.1自由とは何か?
 3.2伝統的価値観における「自由」とは?
 3.3近代的価値観における「自由観」
 ”Mastery for service”に見られる自由観
 なぜ今”Mastery for service”だったのか?

 はじめに


 我々は言うまでも無く関西学院という大学に所属する学生である。その我々にとって、自分の所属する学院のモットーがいかなる物か考察する事は非常に大きな意味があると思う。そう考え、私はここで、学院のモットー”Mastery for service”と伝統的、近代的価値観のもつ「自由観」について考察してみた。いったい”Mastery for service”とはなんだったのか?そしてそれはいかなる視点をもつ自由観だったのだろうか?

 ”Mastery for service”と、「C.J.L.BATES」

 
 まず”Mastery for service”とはいったいどのような経緯でつくられたモットーであったかについて見てみよう。
 ”Mastery for service”は関西学院の院長に就任していた「C.J.L.BATES」によって提唱された関西学院の新しい(当時)のモットーであり、これはBATES氏が就任した直後校舎に掲げられた。その後『商光』第一号(1915年)において” Our college motto”として提示されたのである(1)。このカナダ・メソジスト協会の牧師によって掲げられた”Mastery for service”というモットーは学院全体を貫く最も重要な理念となったのである。
 では、この”Mastery for service”を掲げたベーツ氏とはどのような人であったのだろうか?彼ベーツ氏は元々カナダ在住のキリスト者であり、敬虔なクリスチャン、そして宣教師であったという。彼の考え方を知る上で重要だと思われる文章に1921年度院長報告がある。すでに関西学院の院長に就任していた彼はその文中で、「ミッション・スクールとして、すなわち一つの使命(Mission)を持つ学校として、関西学院は、その働き分野全てにおいてこの国の教育運動に真の貢献を果たすべきである、つまりその働きを通して人々の知的・霊的な生活に貢献すべきである」(2)と述べている 。ここでは、彼の”Mastery for service”というものの理念がすでに語られていると言って良い。ミッションスクールとしての使命と理念とはまさに他者にたいする霊的な貢献であるのだ。

 自由とは?
 3.1自由とは何か?


 では次に”Mastery for service”に込められた彼の「自由観」について考えてみたいのだが、そのまえに「自由」とはいったい何なのか、それを考えてみたいと思う。
 自由とはいったいなんなのだろうか?広辞苑においてはこのように定義されている。
 「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は、このような条件からの自由、何かへの自由であり、条件と目的によってさまざまである。」
 つまり、人間の行動とは何かによって阻害されており、そのような障害の回避こそ自由であるといえる。だが、この自由観という物も実際には歴史的、文化的要因によって変化してきている。ここで私は自由観を伝統的価値観と近代的価値観というふたつの視点から捉え、それを仮定したいを思う。
 ではまず伝統的的価値観における自由とは何だったのだろうか?
 
 3.2伝統的価値観における「自由」とは?


 イエス・キリストの人生が図らずも示しているように、人間の生には「原罪」、すなわち「自己中心の深淵」が付きまとう。人間は決して己の欲求から自由になれず、またその欲求から派生する原因、結果という因果の応報関係から脱却できない。これは東洋、インドの仏教哲学等にも通ずる考え方であり(カルマ、業の存在とその克服)、キリスト教においても根本命題であった。人間は自身の本能的な物的欲望を捨て去ること、つまり「自己中心性の深淵」から自由になること、それこそが伝統的価値観における「自由」であった。キリスト教において、この問題は「キリスト的な生き方」と言う文脈で解決しようとされていた。つまり、キリストがゴルゴダの丘に於いて十字架上の死をうけ、人間達の罪を背負うという完全なる自己犠牲の在り方を示したように(チューリンゲンの聖エリザベート(3)も同様の志向によると考えられる。)、他者に対する奉仕、という方法論が選択されたのだ。こうした視点はルターの言葉(4)にも如実に現れている。
 ではなぜ伝統的社会においてこのような「自由観」が必要とされたのだろうか?
 古代社会において人間が生存する事は、現在の社会とは違い大きな困難を伴った。神と自然を同一視させるほどに厳しい環境、それは人間に自然に対する畏怖心を植え付けるには充分であった。そのため、人々は共同体と言う社会を形成し、その内部の相互協力によってかろうじて生き延びてきたのである。このような状況において共同体内部の「愛の関係」、つまりポジティブな相互関係は必要不可欠なものであり、逆にそのような相互関係を壊すような存在は忌避されなければならなかったのであり、また自然=神との共生が必要だった。そのため「自己中心性からの脱却」と「自然との共生」が古代社会において重要な命題となり、その達成こそが人のあるべき有り方だとされてきたのである。もちろんそれは倫理的な問題であると同時に、間接的に現実的な問題解決の手段(愛他的な存在であるべきだとされる社会では、人は必然的にそう言った傾向をもたずにいられない。)として活用されてもいたのである。つまり自己中心という罪からの開放が人の精神を自由にする、と考えられたのは他ならぬ「社会システム」からの必要性によったのである。(もちろんこう言った言説で「自然」を語る私も近代的な意志に精神を呪縛されているのだが。)また逆説的にはもし個人がこうした社会的規範としての自由観に逆らい、自身の本能的な物的欲望の追求すれば、厳しい自然環境からの相互扶助組織としての共同体から投げ出されることとなり、過酷な自然環境に一人で立ち向かうことと成る。このような結果はその個人にとって絶望的なことであり、そのような自由観を選択する事は不可能なのである。
 
 3.3近代的価値観における「自由観」


 では伝統的社会に対し、近代的な社会では「自由」をどのように捉えていたのだろうか?私は近代とは自然に対する「神性」が薄らいだ社会であり、同時に伝統的な自由観が減退し、近代において個人の精神の自律に基づく自由意思こそが「自由」とされるようになったと考える。
 まず近代価値観とは文字通り「近代的市民社会」の成立から生まれたと考えられる。近代において社会は封建制社会あるいは絶対君主制社会から、立憲君主制もしくは共和制等に政治システム自体が変化してきた。社会の変化と同時に市民、すなわち大衆の意思は自立して行く。また文明の発達、資源食料の蓄積技術と運搬技術の発達により、社会は急激に分業化が進んだ。こうした流れにおいては人は「自然」との深い関係を持ち得なくなり、当然ながら「自然との共生」といった観点は失われていく、そして文明の発達により自然の利用方法を知った人々は、「自然」を消費するべき外部として見なし、資源という支配されるべき存在として考えるようになった。
 こうした社会、文明の近代化とそれによってもたらされる自然観の変化は「自然の中の自分」という考え方を希薄化させ、同時に「自己中心からの脱却」といった自由観も意味を成さなくなっていった。まさにニーチェが「神は死んだ」と看破したように!
 このような変化により人はどのような「自由観」を持つようになるだろうか? 18世紀、上に挙げたような社会システム変化の中で、カントが「あえて賢かれ」(5)と言っている 。カントは「啓蒙とは何か」という論文で、その冒頭において「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態を抜け出ることである。」とし、未成年状態を「他者の指導」によってしか自分の悟性(理性と読み替えて差し支えない)を使用できないこととした。言うまでも無く「他者の指導」とは神=自然の後見であり、神=自然という権威の中でしか自分の理性を使用しないことをカントは批判した(6)のだ。そしてそれはつまり、人間の理性を独力で社会の為に使用せよと言うことに他ならない。
 近代において自我の確立には権威への盲従を廃し、思考の自律を行うことが必要であった。精神の自立性、そして啓蒙の思想。それらの前提によりひとは初めて”autonomy”すなわち自律を可能とする。完全なる自律こそが近代的な自由のありかたなのだ。

 ”Mastery for service”に見られる自由観


 では、これら今までの社会が保有していた価値観を踏まえた上で、関西学院のモットー,”Mastery for service”とそれを提唱したベーツ氏の自由に対する価値観について分析してみたい。 彼は” Our college motto” (7)(”Mastery for service”が最初に提唱された文書)においてまずこう語っている。
 「人間の本性は2つの側面を持っている。一つは個人のそして私的な側面、もう1つは公の、そして社会の側面だ。」 (8)
 文書の始めにおいて彼はこう発言したが、これにこうも付け加えている。
 「それぞれの側面には対応する人生の理想がある。一つの側面としては自己の充足が、そしてもう片方には自己犠牲だ。」 (9)「これらは矛盾するものでは無く、しかし相互に補完しあうものなのだ」 (10)
 つまり、ここにおいてベーツ博士は個人的世界の存在とその理想、そして社会的な世界とその理想について語っている。また個人の世界の理想が”Mastery”つまり「練達」であり、社会的な存在である人間の理想が”Service”「奉仕」であろうことは言うまでも無い。ここで私は彼ベーツ博士の語る「練達」とは近代的な「自由観」のあらわれであり、また「奉仕」とは伝統的な自由観の表れであろうと考え、そこで「”Mastery for service”とは近代的自由観と伝統的自由観の止揚の作業の現れ」だと考えるのだ。
 「練達」、すなわち自律の為の鍛錬をベーツ博士は「社会」に対する貢献のために必要なものだと言う。これはすなわちカント的な啓蒙思想と同一線上にあると考えて良いだろう。カントはその著作において、個人がその未成年状態から抜け出る為には「啓蒙」、ベーツ氏が言う所の「練達」が必要なのであり、そして啓蒙を行わしむる条件として必要なものとは「自由」に他ならないという。
 それに対し「奉仕」とは何でろうか?再びベーツ氏の発言を参考にしたい。
「私達は他人に対しても、環境に対してもあるいは自分自身の欲望にも隷従しない。」 (11)
 これも同じく” Our college motto”において書かれた言葉であるが、これは紛れもない「自己中心主義(罪)からの脱却」への志向を示している。「自己中心主義(罪)からの脱却」、これが古来キリスト教が目的としていた自由の概念であったことを考えれば、そこから先の理解は容易であろう。伝統的な自由観が共同体における愛の相互関係において成立し、人々の間において自由に振舞えることが「自由」だとされてきたことからも判るように、「自己中心主義(罪)からの脱却」とは他律的な志向のことをさし、自らの自由度よりも、自分を取り巻く共同体のもつ自由に対する認識が伝統的な自由観をささえている。
 つまり「練達」と「奉仕」、”Mastery for service”とは二つの自由観の表明であり、” Our college motto”においてベーツ氏が行おうとしている事とは「伝統的な自由観と近代的自由観の統合」とそれに対する意思の変革を我々に促しているのに他ならない。
 現代の社会が図らずとも示しているように、そして伝統的な自由観、近代的自由観にはそれぞれ欠陥があることは自明である。
 伝統的な自由観が示していることとは、他律によるゆるやかな世界支配への志向だ。これはニーチェが「三様の変化」 (12)において駱駝として示したものであり、現行の権威、共同体のおきて、死の運命の忍従として表現される。この欠陥とは「忍従」ということばからもわかるように、精神のダイナミズムの欠如だ。ベーツ氏も語るように「生活の唯一の規範としての自己犠牲は弱さを導く」のである。ダイナミズム、活力無き精神では現在の社会において利益を、そして意味ある行動をする事は難しいのだ。チューリンゲンの聖エリザベート(13)は完全なる自我の放棄を行い、すべてを他者に対する奉仕に費やした。それは現代を生きる我々には正直理解できない生き方であり、(もちろんそれを否定するわけではないが)我々はすでにその生き方を「物語」としてしか消費する事は出来ない。そういった完全なる自己犠牲はすでに現在の社会において存在できなくなっているのだ。
 逆に近代的自由観は「完全なる自律」を志向するが故に、精神のエゴイズム化を誘発する。
 確立した自我は他者に対する緩やかな理解を阻害し、他者の支配を目的としてしまいがちになる。つまり、自己の確立とは、言いかえると自己としての視点からしか世界を捉えることが出来ないと言うことでもある。そして自決の精神が共同体そして他者への理解を失わせ、自分の価値観による偏狭な視野による価値観のおしつけが行われるのだ。そしてこの価値観の押し付けは、しばしば国際社会において顕在化する。サミュエル・ハルチントンが『文明の衝突』 (14)において語ったように、現代社会の問題とは「異文化の背景を持つもの同士の対決」である。西欧文化圏、アジア文化圏、イスラム文化圏それら異なる文化の背景を持つ集団同士による抗争、これこそが冷戦終結後、次世代の国際紛争のあり方である。こういった自分の価値観の無分別な押し付けによる悪影響は人間、民族だけでなく自然にも存在する。つまり自らも自然の一部だと言う理解を欠いた意思は自然に対する思いやりの気持ちを失わせ、それが現代における自然破壊、そして環境の悪化を導いているのだとも言えるのである。
 伝統的世界では、神、もしくは共同体と言う視点から環境を捉え、理解する事も出来るが、近代的な社会においてはもはやそのような視点の超越性を持つことは出来ないのである。また近代において社会の分業が発達し社会における自分の存在意義が薄れ、社会存在の希薄化が進んでいることも逆に自己の確立というより、自己の孤独化をうながし他者に対する思いやりを阻害している事は記されるべきであろう。これら伝統的な自由観、近代的自由観のもつ潜在的な逆機能は、それらの志向の根本に根ざしている為排除する事はできない。ここで行われるべきこととは両者の止揚なのであり、”Mastery for service”とはまさにそういった考えに基づいていると考えられる。
 
 なぜ今”Mastery for service”だったのか?


 現在の社会においてこれから考えられなくては成らない問題とは「自然との共生」であり「持続可能な発展」だ。近代的な自由観においてはこれらの問題に対する問題発見の視点は生まれにくい。そのため現代の私達は新たなパースペクティヴ、現代の問題を俯瞰する事の出来る視点を必要としているのであり、図らずも”Mastery for service”とはそういった新しい視点であったといえよう。すでに”Mastery for service”というモットーが生まれてから70年をこえる歳月が過ぎているが、そこで考えられた問題意識とはまさに現在の問題なのである。
 我々総合政策学部の人間がなぜ「総合」政策でなくてはならないのか、それはまさに全ての学問の俯瞰その統合を行う為に他ならない。ベーツ氏がその” Our college motto”でのべられたように、我々が成すべきこととは現実的な問題解決の手段である「練達」と、問題解決を行うにおける最初の問題意識のモチベーションである「奉仕」、その両方の総合である。「仕えられる為でなく、仕える為に。」、自らの知識を総合的に蓄え、それを政策とする。それが現在社会の問題の解決と、その打破に必要なことであったのだ。
 ベーツ氏の語った”Mastery for service”の高い先見性、それを理解することは我々の立脚点の確認でもある。そのうえでの総合政策であるということだけは忘れてはならない。

参考文献一覧

1.関西学院百年史編纂会編 『関西学院百年史 資料編1』
2.松田智夫責任編集 世界の名著23『ルター』 発行中央公論社
3.カント『啓蒙とは何か』他(岩波文庫・青)
4.木田元『わたしの哲学入門』出版:新書館 
5.関西学院百年史編纂会編 『関西学院百年史 資料編2』
6.ニーチェ訳竹山道雄『ツァラトゥストラかく語りき』発行 新潮文庫
7.サミュエル・ハルチントン訳鈴木主税『文明の衝突』発行 集英社
8.宗像恵/中村成文編著 『西洋哲学史 近代編』発行ミネルヴァ書房
9.野矢茂樹 『哲学の謎』 発行 講談社現代新書

脚注

1. 関西学院百年史編纂会編 『関西学院百年史 資料編1』P279 
2. 同上p278
3. 哲学概論 講義ビデオ参照
4.「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」(松田智夫責任編集 世界の名著23『ルター』 発行中央公論社
5. カント『啓蒙とは何か』他(岩波文庫・青)p7引用
6. 木田元『わたしの哲学入門』出版:新書館 p321参照
7. 関西学院百年史編纂会編 『関西学院百年史 資料編2』P659(84) 
8. 同上 "Human nature has two sides, one individual and private, the other public and social."
9. 同上 "There is an ideal of life corresponding to each side. One is self-culture, the other, self-sacrifice"
10. 同上 "These ideal are not contradictory, however but complementary"
11. 同上 "We will not be slaves whether to others, to circumstances, or to our possesions."
12. ニーチェ訳竹山道雄『ツァラトゥストラかく語りき』出版:新潮文庫p43参照
13. 哲学概論 講義ビデオ参照
14. サミュエル・ハルチントン訳鈴木主税『文明の衝突』出版:集英社 参照


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