Sunshine Heaven,
Moonlight Heaven.
銀の三日月は、巨大な鎌のようだ。
夜明け前に、天空で刃を研ぐ。
何のための鎌なのでしょうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、
同じ色の鎌が、
この胸に宿っていることに気がつくのです。
銀の鎌。
金色の夜明けが来る前に。
深い闇。
けれど都会の夜は、白々とした電燈の光が空を染めて、黒と云うよりは、濃紺、とでも云うような色である。
路地裏には猫。
ひっそりと爪を研ぐ瞳が、緑色に光る。
「これからどうしようか?」
そっと囁く声。
「生きていても仕方ないもの」
身を寄せあい、子猫のように小さく丸まって。
「いっそ死んでしまおうか?」
膝を抱えて座り込み、毛布にくるまった少女は、隣で同じように窓の外を見ている少年に囁いた。
がらんとした部屋。
ぶらりとぶら下がった裸電球と、調律なんて何年もしたことが無いはずのグランドピアノ、ぎしぎしうるさいダブルベット、灰色のごわごわした毛布が二枚。
「ここは俺の部屋だったんだ」
ぽつんと少年はつぶやいた。
「うん」
言葉少なに少女は応える。
「このベットは俺の両親のもので、本当は隣の部屋にあった」
「うん」
「…俺、ピアノ弾くの好きだったんだ」
「…今でも弾ける?」
「…さあ。分からない。収容所に入れられてから十年間、一度もさわったことが無いから」
厚く埃をかぶったピアノを少しだけ目を細めて眺めながら、少年はそっと溜め息をついた。
ベットがぎしっときしんだ。
「日が昇って、もう少し暖かくなったら、ちょっとだけピアノをさわってみようか」
少年のほうに体ごと向き直って、少女はそう言った。
「…え?」
びっくりしたように少女のほうを見やってから、すぐにうつむいて、少年は少しだけ笑った。
「そうだね」
ゆっくりとかみしめるように、少年は。
長い沈黙。
割れた窓から流れ込む、神聖なほどに冷たい空気。
遠い昔に聞いた、永遠の繰り返し「波音」。
彼方に見える街を泳ぐ、深海魚のような光。
時間が空回りしているような錯覚。
eins zwei drei vier… eins zwei drei vier…
eins zwei drei vier… eins zwei drei vier…
eins zwei drei ……
パシッと云う音と共に、裸電球の光が消えた。
途端に部屋の空気が月光のみによって青白く染まり、幽冥の世界へと彷徨い出したかのような印象を与えてしまう。
沈黙に耐えかねた声がした。
「寒いね」
少女の声に、少年は、毛布の隙間からくぐもった声を返した。
「十年前のあの晩と同じだ」
「…収容所に入れられたときのこと?」
「七歳だった」
胸の痛み。郷愁?
「私も同じ」
左目を瞼の上から押さえながら、少年は言う。
「『遺伝子劣勢者排除法』自分に関係があるだなんて、その時まで思ってもいなかった」
少年の左目は義眼だ。
「今でもどこが劣っているのか分からないもの」
少女の心臓は機械仕掛けだ。
「知っているのは、療養所と言う名の収容所の地獄」
そこでは「規律」が全てであり、「政府の通達」に逆らえるものなど存在しない。
「友達だった子がいるの。その子は足の指が四本しかなかったわ。ただそれだけのことで、他は健康そのものだった。…臓器提供を強要されて、先週死んだわ。目も心臓も肝臓も皮膚も…何もかも持っていかれてしまった。骨さえも残してはくれなかった」
彼女の指先は、毛布の下で自分の爪先に触れた。小指と薬指。その二つが分かれていなかっただけで死ななければならなかった、背の高い少女を想って。
「まるで最初からいなかったみたいに、奇麗にいなくなってしまったのよ…」
少女の頬で光ったものを、ことさら無視するように、少年は言った。
「俺達はもう『人間』じゃないらしい」
両の瞼を閉じたまま少女は応える。
「そうね。その通りだわ」
「『人間』は今もこの街のきらびやかな光の中で踊っている」
憎むように、憐れむように、少年は窓の外の景色を凝視する。
「あの中に入りたい?」
「…まさか。入れてくれると云っても、もう戻れない。戻りたくなんかない」
自らの幸福が、誰かの犠牲によって成り立つことを知らない、愚かな群集には戻れない。
胸に溜まったどうしようもないわだかまりを吐き出すように、少女はそっと言葉を吐き出した。
「十八になったら、子宮を取られてしまうのよ。女の子は」
「…だから収容所に火を付けた?」
「…。知ってたの?」
「火事の中で一人だけ君が、たくさんの仲間を逃がしていた」
「犬や猫みたいに去勢されてしまうの。それから、政府の仕事に就くの。ねぇ、知ってる?その中には政府公認の売春宿もあるのよ?」
何も残せない体。
未来さえも語る資格のない、永遠の闇。
空っぽを飼い慣らすことは出来ない。
誰にも
。
少女は窓の外の三日月を見つめる。
「…他の子は、ちゃんと逃げられたのかしらね…?」
「あの収容所へ帰らずにすめばいいね」
「…ほんとうに」
たとえそれが永遠の別れになっても、あの地獄の中で絶望に瞳を染めて暮らすよりは。
無理に気分を変えるように、少女は明るい声を出す。
「ねえ、別々の毛布にくるまるよりも、くっついて、二枚とも体にかけたほうが、あったかいんじゃないかなあ」
「そうする?」
「そうしようよ」
外気にさらされて寒いと云うよりは、体の熱量が足りない感じ。火事に紛れて飛び出してきてから、一晩中逃げ回っていたから、空腹も感じている。お互いに口には出さないけれど。
「あ」
同時にくるるるる、とお腹を鳴らして、二人は笑った。
「お腹すいたね」
少女は少し冗談めかしてそう言った。
「うん」
ほっぺたを寄せあうようにくっついて、少女は続ける。
「寒いね」
「うん」
少年の腕が、そっと少女を抱き寄せる。
「…淋しいね」
少女が囁く。
「…」
少年は無言で腕に力を込める。
長い沈黙。
互いの体温を感じながら、決して眠れない夜。
窓の外には三日月。
しんしんと降り積もる闇と風。
塗装の剥げた、コンクリートのまだらな灰色。
やがて少女がそっと沈黙を切り裂いた。
「ここにね、毒があるの」
家族の写真を入れたロケットの中。二粒の銀色の薬。
「苦しまないで死ねるんだって。一人で逝くのは淋しすぎるから、大切な人と二人っきりで飲みなさいって。…お父さんが」
幼い頃の思い出。残酷な。
少女は目を閉じて続ける。
「…二人が本当に絶望したときに」
遠くから近づいてくるサイレンの音。
「見つかったかもしれないね」
半ばあきらめたような少年の声。
「せっかく君のこと好きになりかけてたのに」
少年は、銀の薬を受け取る。
「火事の炎の中で、たくさんの仲間を逃がす君を見たときから、そんな予感がしてた」
「だからなの?警備員に捕まった私を必死で助けて、ここまで連れてきてくれたのは」
「…夢中だった」
肯定とも否定とも取れる言葉。
…サイレンが、本当に近くで止まった。
少女はふと思いついて、少年に問いかける。
「もし生まれ変わりがあるのだとしたら、今度はどんな時代に生まれたい?」
少年は、少女の額にこつん、と自らのそれを押し当てた。
陽射しに抱かれて眠る、
窓辺のイマジネーション。
「もっと…」
「うん?」
「もっと…優しい時代に生まれ変わりたい」
目を閉じればわかる。
夢の続き。
互いの指を絡ませながら、少女は優しい声で、少年をあやすように言う。
「一緒に生まれ変わろうね。信じていたら叶うかもしれない。たった一つの願い事だから」
「…叶うよ。当たり前だろ。そんなこと」
ちょっと怒ったような声。
目覚めたときには必ず、
その人が傍にいるの
。
「本当云うとね、ずっとあなたのこと見てた」
「…知らなかった」
「ココロのカタチが似てると思ったから、目が離せなくなった」
「…そうだね。似てるね」
少年の吐息のような囁き声。微かに、泣き出しそうな波動。
ずっと昔から、
誰かに愛されたかったの。
ずっと昔から、
誰かを愛したかったの。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
毒の粒をそっと飲み込んで、どちらからともなく唇を合わせる。
…生涯で唯一度の接吻。
(何者にも引き離されないように、三日月の銀の鎌で命を絶つの)
ひどく優しいキモチ。
ひどく静かなキモチ。
路地の片隅で、子猫が鳴いている。
しっかりと組み合わされた二人の指は、決して誰にもほどけない。
幸福と呼べないほどの幸福。
誰か一人の罪ではなく、ただ、生まれる時代が悪かっただけなのかもしれない。
悲しみと呼べないほどの、喪失感。
誰よりも切実に「人間」として生き続けることを願いながら、結局は自ら死を選ぶことでしか開放されない。
自由と呼べないほどの自由。
月がひときわ強く輝いた。
冷たい時代だから。
無関心な時代だから。
泣きたくても泣けない子供があふれてる。
闇は冷たく凍りつき、
路地裏で夢は砕け散る。
退廃の風。
運び去るセピアの写真。
(届かない陽のぬくもり。
聞こえない月の声。)
打ちっぱなしのコンクリートの中にも、
本当は暖かさがあるはずなのに。
誰も気付かず街は人工の光、溢れて。
どこにもないの。
どこかにあるの。
遠い幻。
抱きしめて眠れば届くのだろうか。
Sunshine Heaven,
Moonlight Heaven.
やがて空が白み、黄金色の夜明けが巡ってくる。
どこか遠くで、無邪気なピアノの音がする。
Fin
初出・1996年11月発行 『星陵文学』
昔の文章はやはり恥ずかしいですな。
っていっても今の私も同じだったりして(汗)。