三国志 概要
三国志、時代と背景です。
以下、ハミルトニアン Vol.50より転載・加筆・訂正
三国志とは、後漢末期、朝廷内の腐敗が地方軍閥の割拠を招き、
それら地方軍閥の中で生き残った3つの国 魏 呉 蜀 のお話です。
幼少の皇帝と宦官・外戚たち
中国王朝では、皇帝、皇后などの身の周りの世話役として、 「宦官」って言う人たちがいました。
当然、皇帝の身近にいますので、皇帝の信頼もえやすく、 権力を握りやすいわけですね。
日本で言うと、側用人の柳沢吉保みたいな感じですね。 で、それだけならいいのですが、
皇后の親戚で 「外戚」っていうのも、権力を握りやすく、 宦官、外戚の間で、権力闘争が数多く起こりました。
漢帝国(この場合、後漢)に不幸だったのは、皇帝が長生きをせず、初代光武帝、
2代明帝、3代章帝をのぞく、残りの11人の皇帝は皆10代前後の即位でして、
この辺りにも、外戚や宦官が勢力を伸ばす原因が潜んでいたようです。
三国志において、後漢の権威を完全に失墜させたのが、 十常侍(宦官)と可進(外戚)の争いを、
地方軍閥の董卓に嗅ぎ付けられて、 朝廷を乗っ取られてしまったことです。
黄巾の乱と地方軍閥の台頭
さて、董卓のような地方軍閥が現れた原因ですが、農民の反乱「黄巾の乱」が挙げられるでしょう。
乱の鎮圧の為、地方の実力者は、私兵団(部曲と呼びます)を組織し、その軍事力によって、
自らの領地の安定化に努めました。
また、その軍事力を背景に、朝廷に対し自らの独立性を主張するようになってきました。
なお、その部曲を構成したのは各豪族の親戚、友人知人など、ある意味、地縁・血縁を
重視した形を取っていました。
余談ですが、劉備が最終的に、蜀一国しか領有できなかった理由のなかに、
小豪族(小さな地域の有力者)を、うまく味方に付けられなかったことがあげられるでしょう。
彼には、頼れるような親戚も、兵士を融通してくれるような知人もいなかったと考えられます。
この辺り、農民出身で朝廷貴族の社交界に入れなかった彼の悲しさがあるのかも知れません。
(そんな状況で、蜀一国制覇できただけでも、すごいことなんですけどね。)
皇帝の権威と没落
後漢のほぼ全期間をかけてなされた「宦官と外戚の争い」によって、漢帝国の権威は、
完全に失墜したと言えますが、いまだ皇帝自身に対しては、それなりの尊敬や畏怖の念が
人々の間にあったと考えられます。
横暴を極めた董卓でさえ、結局、漢の丞相位どまりで、皇帝自身には手を出せなかったことが伺えます。
さて、地に落ちたとはいえあなどれない権威を持った皇帝をうまく利用したのが、
「乱世の姦雄」曹操です。
皇帝を陣営に迎えた当初の曹操の勢力といえば、北に袁紹あり、東に呂布あり、南に袁術あり、
西に張繍ありと四面楚歌の状態でした。
袁紹陣営にも「皇帝を迎えるべきだ」という主張があったのですが、「皇帝の権威」の
見誤りから、袁紹は皇帝を迎える案を却下してしまいます。
皇帝の「価値」を誰よりも正確に見抜いていた曹操が天下を取ったのも、
当然といえば当然かも知れません。
(実を言うと、曹操自身も皇帝奉戴には乗り気でなく、参謀の旬或(漢字違ってます)
に「後悔先たたず」といったことを言われて、渋々皇帝を招いたと言われています。)
ちょうど、足利将軍が織田信長を頼ったのと似ていますね。構造が。
足利将軍を拒否した越前の名族朝倉氏と、皇帝を招かなかった漢の名族袁紹。
どちらも、滅びの道を歩むのは、歴史の反復性を思い起こさせますね。
軍閥同士の争い
中央からの押さえが弱くなったなら、地方の有力者は自らの利益のためだけに行動を始めます。
そして、我こそは天下の覇者ならんとして、侵略・占領が各地で繰り返されるようになります。
各豪族が天下統一をそれぞれ目指し、集散離合するところが、三国志の一つの魅力であると思います。
集散離合を繰り返す豪族の中で、非常にユニークな動きをするのが劉備です。
彼は、自らの拠点を持てず、各地の豪族の間を転々とします。
有名なところだけでも、北平の公孫讃、徐州の陶謙、後に徐州を陶謙から譲られるが、呂布に乗っ取られ
呂布の庇護下に入り、そして許昌の曹繰、河北の袁紹、汝南の劉僻、荊州の劉表、最後に呉の孫権、
と三国志に出てくるメジャーな群雄のほとんどと、同盟関係を結ぶ、もしくは客将として迎えられています。
このことから、拠点はないものの、劉備の軍事家としての評価が各豪族の間で
それなりに確立していたことが伺えます。現に、徐州侵略戦で敵対していた劉備を
曹繰は賓客として迎えていますし、袁紹も従兄弟関係にあった袁術を劉備に殺されているのですが、
劉備に保護を求められこれを助け、戦線を共にしています。
話が、劉備のことに偏ってしまいましたが、天下統一をかけた攻防の中で生き残ったのが、
冒頭に書いたように、魏の曹繰、呉の孫策、孫権、蜀の劉備であったわけです。
正史と演義
ちょっと、話題の方向を変えまして・・・。
一口に三国志といっても、そもそも古い時代の話ですし、
一つの事柄に対していろいろな説が現れるわけです。
三国志を読み始めたころに出てくる誤解って言うのが、「正史」と「三国演義」の取り違え、だと思います。
基本的に正史って言うのは、次の時代の王朝が前の時代の王朝の歴史を編纂して、
結果、自分の王朝の正当性を述べることを目的として書かれているようです。
「正当性」に関して補足ですが、中国では古来より、王(皇帝)は天の子とされ、
天帝によってこの世を支配することを許可された人間である、と考えられてきました。
当然、前の時代の王(皇帝)は、天帝に許可をもらって統治してきたと考えられるわけで、
その前の王様から帝位を正当に受け継ぎましたよ、ということを示したいがために正史を編纂するのです。
「三国志」(正史)は、陳寿によって書かれ、晋皇帝の認可の下、正史となりました。
また、陳寿の正史は名文とされましたが、あまりに簡潔な表現であったために、南朝宋の文帝(劉義隆)が、
裴松之に命じて、注釈を付けさせました。これが、よく言われる「裴松之・註」です。
陳寿の正史と裴松之の註を合わせて、一般に「三国志」(正史)と呼ばれます。
さてもう一つの三国志である「演義」ですが、これは羅貫中という人によって描かれた「小説」、ある意味作り話なわけです。
書かれた時代も、「正史」は晋代(魏を乗っ取った王朝)に書かれたのに対し、
「演義」は元代の末から明代の初めに書かれ、その内容も「正史」の故事を参考にしつつ描かれています。
しかし、書かれている内容の知名度は、勧善懲悪のはっきりした「演義」の方が受け入れられやすく、
「演義」をもって史実であると信じている人も多くいるようです。
正史と演義の違いの例を一つあげますと、有名な赤壁の戦いがあげられるでしょう。
この戦い、演義では諸葛孔明がそれこそ人智を超えた大活躍をするのですが、
正史にはそのような記載がなく、赤壁での勝利は、もっぱら周喩及び呉軍の活躍によるものとされています。
確かに、孔明は、孫権との同盟を結ぶのに力量を発揮しましたが、
曹繰との戦争は、ほぼ呉軍が戦い、劉備軍は遊軍として戦況を見守っていただけのようです。
当然、華容道で曹繰を見逃したというのも、羅貫中による脚色である可能性が強く、
三国志を読んでいく上で、正史と演義の区別は、充分な注意が必要です。
当時の人口
現在の中国の人口は十数億といわれ、もはや正確な数字すら割り出せずにいます。
さて、三国時代の人口はどれくらいだったのでしょうか?
時代
人口(戸数)
前漢
5900万
後漢初期 (建武中元2,西暦57年)
約2100万(427万戸)
後漢末期 (永寿2,西暦156年)
約5600万(1600万戸)
三国時代
魏
呉
蜀
767万(250万戸)
443万(144万戸)
230万(73万戸)
94万(32万戸)
表の数値は、厳密にいうと三国時代のものではなく、三国時代を統一した晋(西晋)の統計によります。
ここで注意しなければならないのは、後漢末期に5000万近くいた人口が、
三国時代を通して、激減していますが、これは、戸籍に載っている人の数が減っただけで、
実際の人口がここまで減少したのではないということです。
戦乱で家や土地を失った人々は戸籍を離れ、流民として生活を送りました。
彼らの多くは、太平道などの宗教に惹かれ、黄巾賊として後漢滅亡のきっかけともなっています。
そのような流民をいかに統治するかが、三国時代を通じての課題であり、
中国の2/3の統一を果たした曹繰は、屯田制などでこれらの流民を自分の配下に加え
国力を富ませることに成功しました。
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