
諸葛氏について
どうでもいい話ですが、孔明は中国では珍しい「2文字姓」の一族であります。
諸葛氏の起源をたどりますと、諸説あるのですが、元は「葛氏」で、
徐州に移転してきたとき、既に徐州には「葛氏」が存在したので、区別するために
「諸」の文字を頭に付けて「諸葛」姓を名乗ったと言われています。
他に、2文字姓として「夏候氏」「司馬氏」「公孫氏」などがありますが、
いずれにしても、2文字姓は少数派であることは変わりありません。
孔明その生い立ち
「伏龍・鳳雛のうちいずれか一人を得れば、天下も制する」と評された、伏龍こと諸葛孔明。
彼は、181年徐州のロウ邪郡(王偏に良い=ロウ)に生まれます。ちょうど、名高い「黄巾の乱」
が、始まろうとしている頃で、孔明はまさに「戦乱の申し子」といえるでしょう。
諸葛亮を語る上で、キーとなるのが194年の曹操による徐州攻略です。徐州の牧陶謙の部下が、
徐州滞在中の曹操の父、曹嵩を暗殺したことがきっかけかけで、激怒した曹操が、
報復行動にで20万にも及ぶ徐州人民を虐殺したと伝えられています。
つまり、孔明は少年時代に曹操による侵略の被害者であり、この若き日の経験が、
孔明の反曹操感情に大きく影響してると考えられます。
徐州を落ち延び孔明が向かったのは、揚州豫章郡の郡太守をつとめていた、
叔父の諸葛玄を頼ります。(このとき父母は既に他界)が、ここでも孔明には
平穏な生活はありませんでした。
当時、朝廷の力が弱まっていたので、地方の有力軍閥は、自らの影響力のある地域の
人事権をおおよそ握っていたと考えられます。孔明の叔父諸葛玄は、准南に精力をはる
エン術(園の国構えのないもの)の後押しを得て、太守となっていたわけです。
ところが、その豫章郡に「朝廷に任命された」太守が赴いてきて、争いが起こりました。
この戦いに敗れた孔明の叔父は戦死。再び孔明は戦乱の中へと投げ込まれたわけです。
最後に孔明が落ち着いた先が、劉表の治める荊州でした。
中国大陸中央に位置する荊州は交通の便に優れ、また、中原における
戦乱も飛び火してこなかったため、文化人が集まり非常に栄えていたようです。
ここで孔明は、後に劉備と出会う207年まで孔明の人生において、唯一とも言える
平和な時を過ごすことになります。
三顧の礼
三国志に出典をみることのできる故事成語で、有名度ベストスリーに入っている言葉でしょう。
戦乱を逃れて荊州に庵を結んだ孔明と、同じく、曹繰の追撃を逃れて荊州の劉表をたより
つかの間の平安を得た劉備とが出会う場面として、位置づけられています。
具体的には、荊州下の月旦(人物の評価する会)において、臥竜と賞される孔明を、
劉備が、自分の軍師に迎えようと、彼の自宅を訪ねるのですがなかなか会えず、3度目にしてようやく
会見がかない、その承諾を得た、というような話です。
劉備と孔明の深い絆を描く三国志中でも屈指の名場面でしょう。
ところが、これが本当にあったかどうかは、疑問符が残るのです。
当時劉備は40歳を過ぎ、孔明は、弱冠20歳。
劉備は、地方軍閥の長としてそれなりの名声もあった。
果たして、劉備がそのような若者に対して、低姿勢を保ちえたのか?
また、知識階級の孔明が、目上の者に対して2度も訪ねられて、不在という無礼を犯しえたのか?
といった疑問が浮かび上がります。
三顧の礼はそもそも作り話で、実際は違う、という観念に立った次のような話があります。
当時、荊州の知識人の間では、「この戦乱の世で、どのように荊州を安定させていくか?」といった
議論が多くなされており、統治者側も、民間の知識人の知恵を政策に取り入れようと、
君主の前で公開討論会のようなものが、盛んに執り行われたと思われます。
そのような中で、劉備が座主となって、開いた討論会に孔明が出席していました。
ところが、議論が白熱するのに、孔明はひとことも発言せず、会の終了後他の出席者は、
席を離れるのに、孔明だけはその場に残っていました。
これを見た劉備は、「何か話したいことがあるのか?」と思い、その場に残り、
髦牛の皮でできた紐を、結んだり解いたりして時間をつぶし、孔明が話し出すのを待ちました。
意を汲み取った孔明はすかさず、
「将軍、あなたには大志がおありなのですか?それとも単に紐で手慰みをされているだけなのでしょうか?」
と語りかけました。劉備は答えて、
「私は、ほんの一刻、こうして心配事を忘れようとしているのだ。」 と。
孔明は、曹繰の強大さ、対する劉備、劉表の弱小さを唱え、戸籍の再調査を行い、
若者を徴兵すべきだ、という自説を披露します。
劉備は、次からも孔明に意見を述べに来るように言い、会見3度目にしてようやく、
人払いが許され、「天下三分の計」を披露するに至ります。
こうしてみると、三顧の礼の立場が完全に逆転していることがわかります。
仲達と曹丕
仲達が唯一主と仰いだとされるのが、曹操の子、魏の初代皇帝文帝こと曹丕です。
文帝が死ぬとき、息子曹叡(魏の2代皇帝)を仲達に託すわけですが、この辺り、
多くの学者が指摘するように、劉備と孔明の君臣の交わりに似た関係が、
曹丕ー仲達の間にもあったように見受けられます。
彼の場合、曹真、陳群とともに後事を託されたわけで、孔明が一身にその重大事を
任されたのに比べると、若干の責任の軽さがあったのかも知れません。
(ん?けど、魏の国土の広さ、人口の多さなどを考えると、充分大変な仕事ですねぇ。)
ところで、仲達は曹丕の皇帝位簒奪の立て役者の一人なわけですが、
分からないことが一つありまして・・・。
時代は遡って、仲達が魏に仕官するときなんですが、彼は再三に渡って曹操の
仕官の誘いを断っているわけです。(結局、仕官させられちゃいましたが)
司馬氏の家柄
漢代の名族と言っていいでしょう。有名な「史記」を書いた司馬遷も
この一族の出身です。(ちゅうか、姓を見れば一目瞭然ですが・・・)
血縁・地縁が出世の有力な手段であったこの時代において、名族の出身であることは、
仲達に取って非常に有利なことであったことでしょう。
ただ、名族が故にその名声を利用しようとした曹操への出仕を強制されたわけでも、
あるのですが・・・。